監視と治安の関係とは…?理想の安全のあり方を考える

 

今回も、前回に引き続き少し社会という側面に注目してみたいと思います。監視と治安の関係とは?これは私が日頃から考えていることです。監視があれば社会の安全は成立するのでしょうか?それとも監視なしで治安が維持できる?考えれば考えるほど奥の深いテーマです。もちろん1つの記事だけで語り尽くせるものではありませんができる限りのことは紹介できればと思います。それでは、参りましょう。

 

監視が治安を形成するのか

 

監視体制が整っていることが治安の維持に繋がるのでしょうか。ある種、これは正解だと、私は思っています。ただし程度が重要です。監視の全くない社会を考えたことはありますか?これは実質実現しないものと考えています。というのも、人間が相互に関わり合っている以上、それぞれがお互いの行動を見ているからです。他者がいることで、人間は、大なり小なり、見られている感覚を持つものです。そして、この感覚が行動を抑制する役割を果たします。誰も見ていなければなんでもするのか。決して、そうとは言いません。しかし、人の目という存在はかなり大きなものです。監視カメラも同じ役割を果たしています。人の目をどこにでも設置することはできません。だからこそ代わりとして監視カメラが誕生しました。監視とは、つまり、人の目が行き届いた状態なのです。

 

では、監視は必ずしも治安を形成できるのでしょうか?必ずしもそうとは限りません。監視が過度に進むと人間は精神的な平静を保つことができません。プライバシーがない状態です。監視の程度が重要です。そして、逆にこのような考え方もできます。権力を伴った監視は悪なのか…それとも悪ではないのか。むしろ、全く悪ではないのではないか。興味深い例をご紹介しましょう。独裁国家は必ず悪でしょうか?中には、現地の国民に愛される独裁者というのも存在します。対外的に見て独裁者であっても、内側ではヒーローとして人気を博すこともあるのです。つまり、このようなことが言えるのではないでしょうか。監視がきつかろうと、その権力を持つ人や団体が、周りの人に利益をもたらす存在であることがわかっていれば、その人による監視も不快ではなく、むしろ、自分がその経済圏やコミュニティなどで安心に包まれる。そんな面白い例もあるのです。他にも、ギャングやマフィアにより監視されたコミュニティの話があります。外から見ると、単なるかわいそうな人々と荒くれ者という構図かもしれませんが、必ずしもそうとは限りません。地方の権力者が追放されることで、その地域の治安がむしろ乱れるということもあります。つまり、ある程度の恐怖を伴うかどうかは別にして、そのような人が治安の蓋のような役割を果たしているのです。そして、蓋が開いた瞬間に、全ての重石がなくなり、あらゆる人々が混乱の中を生きる。そんな状態です。大名が群雄割拠する戦国時代とでも言いましょうか。

 

ただし誤解はしないでください。ここで私が言いたいのは恐怖よる人々の統制の擁護ではありません。むしろ、そのようなあり方は是だとは思っていません。私が強調したいのは、揺るぎない安心感や信頼感を伴う監視は、予想以上に圧迫的ではなく、むしろ、居心地の良ささえ生み出す可能性があるのです。これは非常に興味深い現象です。これをうまく監視による安全の確保と組み合わせることができれば、世界のあらゆる場所の治安の改善が進められるのではないでしょうか。信頼できない、承認すらしていない存在からの監視であれば不安です。単にプライバシーを侵害されていると感じます。しかし、信頼し、守って欲しいと思う人からの目はむしろ温かでありがたいものになります。この違いを理解することが重要です。監視カメラも、冷たい、プライバシーを阻害する機械ではなく、温かな見守りの目として機能するが一番です。監視カメラにはその素質が十分に備わっています。大事なのはそれを使う人が正しい方針を心に留めているかどうかです。

 

さらに言えば、監視カメラだけが監視の手段ではありません。先に登場した通り、人間一人一人の目が監視の手段です。監視という言葉に少し抵抗を感じる人は、見守り、気にする行為だと考えてください。見ること、近くすること、変化に気づくことは他者への思いやりの第一歩です。自分のことばかり考えていては、コミュニティの利益に貢献することはできません。目を人のために使って、周りの人々にとって最高の監視カメラになりましょう。もちろん、温かな目です。